3,頭部流血による手術中の出来事

幼稚園に行くようになり友達が出来友達と遊ぶ機会が頻繁になると、遊ぶ場所も数か所に固定させ必ず遊びに行く前に親に報告してから遊びに行く携帯のまだ無い時代ならではの原始的な連絡手段であります。例えば、知らない人から声をかけられたり、お菓子やジュースなども買ってあげると言われても断りなさいと徹底してました。もしくは、近所の町工場、食堂、酒屋さんに逃げ込みなさいと言われる位顔見知りで親戚も多く、とにかく人間関係が濃厚でしたよ。地域住民の輪というものがお互いの為に力を合わせ地域の子供たちの為に様々なイベントを私たちの年代の子供の頃は縁日を始め、お祭り、年越しなどの屋台が子供の頃の私たちにとってワクワクするものがありました。こういう環境で無邪気になれる事は大人に成長するにあたり私は良しとされる思い出であると思います。「環境が人を育てる」といいますが、いつのまにかその環境が大なり小なり知恵に変わり大人になった時子供の頃を思い出す人も中にはいるでしょう。私もそのひとりです。今思えば子供の頃の楽しい思い出というものは、未来に対する物差しの為に過去の楽しい思い出という分銅を天秤に乗せ、現在今何をすべきかを探る言うなれば、現在を探る為の基軸となる大切な時間なのです。過去にしっかりとした思い出があれば、未来予想図の参考として、現在に導く事がやり易いということです。そういう自分自身の人生の築き方と捉え方は選択肢の1つとして理解し、心に持てるか否かで人生において大きな差が出る可能性があると思うのです。思い出は、良い思い出、楽しい思い出、一般的な思い出、美味しい思い出、まずい思い出、苦い思い出、痛い思い出など様々あり、今となってみれば、良しとされる思い出、悪しとされる思い出として頭を整理する訳です。悪しとされる思い出は、未来に対しどのように精神的に消化されるべきだろうか?例えば、犯罪の思い出の場合防犯になるのではないだろうか?気持ちの中で防御線を引けば、自分の過去の経歴の考え方がひっくり返り、良しとされる考え方として認められれば、反省する意味も深くなると思うのです。もう一つのパターンは本当にあった話を実体験の元、分かり易い表現で紹介致します。幼稚園も年長さんになり自転車をこぐのも補助輪を外し二輪で走るようになり、自分自身も自信に満ち溢れていました。いつもと同様に友達と一緒に遊びながら自転車を乗っている時に事が起こりました。実家の家の近くは路地が張り巡らされており、その路地から出て来た実家の真ん前で、単独事故を起こしてしまったのです。実家の目の前の路地の奥の方から実家に向けて減速しながら走り止まろうとしたところ、バランスを崩してしまい、横に倒れそうになったところ、ジュースの自動販売機の側面に頭をコツンと強くもなく弱くもなくぶつけてしまったのです。痛くはなかったです。手で頭を押さえ目で見た瞬間、手のひらが血で真っ赤っかになっていたのです。大泣きです。丁度その現場を見ていた母は、すぐに父を呼び、タオルを頭に当てて車で病院へ行ったのです。頭を縫う準備が出来ており手術がはじまりました。①全身麻酔を打っているので、頭の中は何も浮かばず無の状態。②何も感じないという時点で全身麻酔が切れ始めているかも。③夢を見始めた。全身麻酔が切れた。④チクリッ(激痛)⑤ウギャー(大泣き)全身麻酔が切れている状態で頭部の傷口を縫っていたのです。経験は決して悪利用してはならない過去の産物であると私は思います。最後の話は非常に痛々しい話ではありましたが、2度と経験したくはない出来事ですね。しかし、考え方によっては『知的財産という宝くじで』1等を当てた気分ですよ。嬉しくない1等ですけれどもね。自転車は気を付けて乗りましょう。