4、初めての一人暮らし(ファミリーレストラン、そして寿司割烹)


結局代官山のお店も長続きせず、専門学校時代働いていたファミリーレストランの系列の神奈川県横須賀市北久里浜の店で働く事となりました。店長は昔働いていたファミリーレストランの副店長だった人物です。オープンしたばかりの店だったので人材育成を中心に事が進んだわけであります。東京都品川区のビルやマンションの立ち並ぶ実家から離れ、海や山が近くにある場所で、初めて会う仕事仲間も全てが新鮮で張りのある、失敗してもくじけず、明るく私の事を受け入れてくれました。始めは通勤もバスだったのですが、ある日従業員の仲間が「もしこの自転車使うのならあげるよ」とくれたのです。自転車は有難かったのですが山が多かったので走るのが大変でしたね。2~3か月経ち原付を買う事にしました。当時私は22歳。他のパート・アルバイトはおばちゃん・お姉さん、大学生、高校生でした。アットホームの環境でした。店長が私の性格を皆に色を付けて説明したらしく、やけにトントン拍子で話がまとまる。だから私もそれに答えなくてはならない。仕事内容は誰でもできる様にマニュアル化されており、一応それに従いながら仕事をしたもんです。仕事が終わったら、カラオケへ皆で行ったり、私の家でパーティーをしたり、困ったことに一人暮らしのの緊張感はどっか行ってしまいしたね。私の悪い癖です。生活費はいつもギリギリ。生活自体はその当時楽しかったのですが、とうとう経済的に底を突いてしまい、店長に相談したところ、時給はあげる事は出来ないとはっきりと言われ、就職活動をした訳であります。母親から電話があり、三浦市にある水産会社直営の料亭、寿司割烹屋さんはどう?と打診がありとりあえず面接に行きました。そして、お世話になる事になりました。寿司割烹屋さんの方で働く事となり、初めはカウンター越しにお客様がいらっしゃるもんで、緊張しました。しかしですが、私にとって、調理師の技術的に物凄く勉強になったのもこの寿司割烹屋さんのおかげでございます。例えば、生きたカンパチを捌いたり、こはだ、アジ、〆サバ、そして、アナゴまでやらしてもらえたのです。包丁は毎日研いでいましたね。アナゴを下ろすのはむずかしかった。でも最終的には、手際よくササっと仕事をこなし、着実に調理技術の進歩は手に取るようにハッキリしてました。面白かったです。また、厚焼き玉子の担当にもなり焦がさず形の良い玉子焼きを作れるようになったのも私自身感謝しております。軍艦鮨も教えてもらい任されるようにもなり、そんなある日、あの燃える闘魂アントニオ猪木さんがお寿司を食べに来たのです。大きな体でした。勿論、軍艦寿司は私が作りました。私の思い出の1ページです。それから2~3か月が経ち北久里浜のファミリーレストラン元仕事仲間から「横浜ベイサイドマリーナの中の新規オープン店舗で働いてみない?(親会社があの車の大企業)」と言われ、私は正直迷いました。その当時まだもうすぐ23歳になろうとする頃。冒険心の強い私はベイサイドマリーナの中のお店を選んでしまうのです。今、改めて人生を振り返ってみますとわがままな人間だったとつくづく思い、その当時皆様に対し多大な御心配、ご迷惑をかけたことに対し、遅れながらも人生反省している次第です。