滝山城跡ハイキングコース


『滝山城』は、大永元年(1521年)に武蔵守護代の大石定重が築城し、後に大石氏の養子になった北条氏照(小田原北条氏四代氏政の弟)が拡張改修したとされてきました。しかし、近年の研究により,北条氏照は由井良領を支配していた大石綱周の養子になり、「浄福寺城(由井城)」(八王子市下恩方町)に移住し、その後永禄10年1567年)までに滝山城を築城して移転したと考えられてきています。

滝山城が築かれた加住丘陵は東西に長く、北は多摩川に浸食された急峻な断崖、南は谷戸が入り組んだ複雑な地形になっています。こうした地形を利用した滝山城の特徴は「二の丸集中防御」です。「二の丸」は3つの尾根が集中していて、各々に「馬出」を設け、「二の丸には敵を絶対入れさせない」という堅固な構えになっています。永禄12年

(1569年)10月2日に甲斐の武田信玄が上野から武蔵に侵入して滝山城を攻撃した際に、城下に火をつけて「二の丸」まで攻め込んだと伝えられています。しかし氏照が、当時同盟関係であった上杉謙信の家臣に出した手紙によると、城下に兵を出して戦ったとあります。

滝山城跡の入口の写真です入口入って直ぐの所がかなり急な坂になってます。150m位急ですが、それを登りきると景色の良い楽しみが待ってます。

 

その後、氏照は甲斐を重視して八王子城の築城に取り掛かり、天正15年(1587年)ころまでに、移って行ったと考えられています。

①天野坂から桝形虎口へ

大手門と思われる天野坂からの堀底道は、城兵が効果的に攻撃できるように工夫されている。小宮曲輪と三の丸の間には桝形虎口(出入口)が設けられていた。攻め上る敵側にとっては大変な脅威にさらされる場所で、侵入するのが難しかったと思われる。」

 

②小宮曲輪(家臣屋敷)

「小宮曲輪」と称されているので、氏照の家臣の中に西多摩地域出身の小宮氏が活躍していたと思われる。小宮曲輪の内部は土塁(土盛り)でいくつかの屋敷に区切られていたと考えられる。小宮曲輪と三の丸との間には桝形虎口(出入口)があったが、車道により消滅した。

③小宮曲輪桝形虎口(北の備え)

山の神曲輪方面から小宮曲輪へと攻め進むには、桝形虎口(出入口)を通過しなければならない。敵は狭い通路を一列縦隊にならざるを得ない。それに対して城兵は、敵の頭上や側面から弓矢、槍、鉄砲で攻撃する。敵にとっては手ごわい場所に攻め入る事になる。

 

④山の神曲輪(民衆の避難場所と推定される)

「山の神」とは全国各地に残る民間信仰で農耕の神である。春は里に下り、秋は収穫を見守ると再び山に戻っていく。この山の神を祀る山の神曲輪は、城下や周辺村々の民衆たちを、敵の乱取り(放火や略奪)から守るために設けた避難場所であったと考えられる。永禄12年(1569年)城周辺の村々は武田軍(武田信玄)によって焼き払われた。この時、一般民衆は領主の城(滝山城)へひなんしたと思われる。

 

⑤コの字形土橋(強力な側面攻撃)

堀を掘る際に一部を土のままに残して通路として使う場所を土橋という。当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃ができるように工夫していた。敵の直進を防ぐための土橋であり大変貴重な城郭遺構である。

 

⑥馬出(少人数で守れる出入口前の防御設備)

虎口(出入口)の前方に設けた空間を馬出という。この場合は方形に作られていることから「角馬出」と呼ばれている。馬出がある事によって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である。二の丸の3か所の出入口には出馬がそれぞれ設けられている。

 

⑦弁天池跡(宴を楽しむような池と推定される)

眼下には中の島と池跡が見える。実は、氏照の弟、氏邦の鉢形城(埼玉県寄居町)にも中の島があり、その池を「弁天池」と呼んでいた。今は、池を塞き止める土手は分断されているが、当時はつながっていて湧き水や雨水を溜めていた。小舟を浮かべて宴を楽しむような池だったと思われる。

 

⑧二の丸(集中防御)

滝山城で最も防御性が優れているのが二の丸である。3か所の虎口(出入口)にはすべて「馬出」を備え、集中的な防御の構えが認められる。大馬出は大勢の城兵が守り、二方向からの通路を抑えている。築城家は、二の丸を防ぐことによって本丸,中の丸を守れると考えたようだ。

⑨行き止まりの曲輪(ふくろのねずみ)

「行き止まりの曲輪」とは「ふくろのねずみ」という意味で両端が狭い土橋になっていて行き止まりのような形になる。寄せ手側には行き止まりのからくりだが、城兵からすると格好の出馬(出撃用)となり、実に巧妙な防御が施されている。こうした「行き止まり」の曲輪は二の丸の南側にあり大変貴重な城郭遺構である。

 

⑩中の丸南側の防御(櫓門の推定)

中の丸の南側は、二方向から攻め寄せた敵が合流できる場所だった。この場所には土橋の前面を守る防御設備が必要である。土塁の残り方から考えて、櫓門があったのではないかと推定される。

⑪中の丸(本丸の次に重要な曲輪)

「中の丸」の山腹には腰曲輪と呼ばれる平場が多摩川に向かって数多く設けられている。このことから、北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。付近には河越道の渡河地点である「平の渡し」がある。この重要な地点を抑える為に滝山城が構築されたと考えられる。

 

⑫滝集落から本丸への進入路

本丸北西側の桝形虎口(出入口)は滝集落からの侵入路を抑えている。この侵入路を防御する為出丸と本丸から挟み撃ちができるように工夫している。(二方向から敵を挟んで攻める)。出丸の先端部分には馬出をを備え、縦横の堀と共に強力な防御態勢を整えていたと思われる。

⑬本丸南側桝形虎口(小宮曲輪からの城道)

本丸の主たる虎口(出入口)は2か所ある。1か所は中の丸から引き橋を渡って入る桝形虎口。もう1か所は南側に設けられている。桝形虎口は敵の直進を防ぐための工夫である。もし敵がこの桝形虎口に侵入すると体の左側に城兵の攻撃を受けることになる。現在でも桝形虎口が大変よく残っている城郭遺構である。

⑭本丸への木橋(最終的な砦へ導く橋)

当時の木橋はもう少し下に架けられていた。おそらく、中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程引き込むことが出来たと思われる。人工的に掘られた大堀切の上に架けられており本丸が最終的な砦となっていた様子がわかる。「大堀切」はもっと深かったことが試堀によって確認されている。

 

⑮木橋(引き橋)

唯一尾根続きのこの場所は、滝山城の弱点であったと考えられる。その為、防御は厳重を要した。この橋も「引き橋」だったと思われる。橋の下の堀は大池の土手とつながり、一大防御線を考えた縄張(城の設計)になっていた。